船形山ブナ通信  2012年7月10日号

 『船形山のブナを守る会』
 


   
『 第14回 ブナの森 作品展 』開催します

 今回で14年目を数えます。1回目から昨年までの総入場者数が7,976名を数えまさに
「継続は力なり」を感じます。
多種多様で個性豊かな人達、「山だけが人生じゃないよ」という人たちが集まっているか
らこそ、ブナを守る運動もでき作品展も開催できます。
まずもって自分自身が楽しみながら制作し、発表の場としましょう。
作品制作はこれからでも充分に間に合います。かつて勉学に励んだ頃、夏休み期間中
に取り組んだ作品、そんな思い出多き時代に戻って挑戦してみましょう。
皆様の出展をお待ち申し上げております

期  日 : 8月27日(月)  ~  9月2日(日)
会  場 :  大崎市民ギャラリー 緒絶の館 (大崎市役所の近く)
                (大崎市古川三日町1丁目1-1 0229-21-1466 )
テーマ :  「ブナへの想い」
作  品 : 作品の形態や種類は問いません。画、俳句、短歌、書、写真、工芸、
        その他諸々の作品。ジャンルを問わずブナを通じて運動している人達の熱い思いを込めた文化祭です。
作品搬入 : 8月27日午前9時00分~10時30分までに搬入
展示作業 : 9時開始  13時終了
        作品には 住所(市町村名)、氏名、題名 を付記し、展示しやすいように体裁を整えてください。
   事前送付  搬入日に都合の悪い方は8月20日まで事務局に届けてください。
作品搬出  8月2日(最終日)午後4時~5時
 
     9:00~    13:00~    16:00~    17:00~      
8月27日    搬入・展示作業    展示    閉  館      
8月28日    展   示           
  ~                
9月 1日                
8月 2日    展   示    搬出作業    閉  館

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< 悲しいお知らせ >

船形山のブナを守る会の3名の皆さまを、6月13日のマッキンリーの
雪崩事故に遭遇された方々としてお知らせしなければなりません。
K藤Y昭さん、S木M子さん、S田M子さんは当会のメンバーとして共
に歩んで来ました。
Kさんは当会発足以来の世話人であり、特に山岳遭難救助に関しては
充分な経験と知識や技量を有し、遭難対策の第一人者として活躍されてい
ました。
S木さん、S田さんは体験林業やブナの森作品展などにも積極的に参加
され、私達の活動と共に歩まれた方々でした。
事故から約一カ月を経過する段階となっては、遭難を現実の事としてと
らえ、受け入れざるを得ません。
3名の方々と共に歩んだ山道での何気ない会話などがよみがえってきま
すが、今も心はつながっていると思っています。         
                                   合掌     

遭難事故に関し「***山の会」から募金要請があり、その要旨を掲載します。
 
宮城県勤労者山岳連盟デナリ登山隊として五名が登山しました。
行方不明者四名のうち三名は宮城勤労者山岳連盟に所属する***山の会の会員です。
今後ご家族の現地訪問と一緒に県勤労者山岳連盟、および***山の会からも現地派遣をします。
事後総括として報告書をまとめます。
上記事情にありますので誠に心苦しい次第ではありますが募金をお願いする次第です。     
ご賛同を頂ける方は船形山のブナを守る会・代表世話人・K関T夫までご一報ください。
※マッキキンリーとデナリは同一の山を指します。マッキンリーは1897年、当時のアメリカ大統領
ウイリアムマッキンリーの名にちなみ命名されました。
デナリは先住民の言葉で「偉大なもの」を意味し、山を含む周囲にデナリ国立公園が設置され、
アラスカ地名局はマッキンリー山をデナリと改称しました。
 
一枚の写真

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【 寄 稿 】      脱原発に手を挙げる その2
                                     大崎市三本木 Y川R一

 関電大飯3号が起動しました。これに力を得て、なし崩しに停止中の原発の再稼動が各電
力会社で進められるでしょう。東北電力も6月27日の株主総会で、東通、女川の再稼動を表
明しています。5月5日に実現した54基全原発停止が、たったの2ヶ月弱で崩されてしまいました。
いったいフクシマから何を教訓として得たのでしょうか。
 6月12日から3泊4日で韓国(ソウル)に行って来ました。現役時代に親交のあった韓国の会社
の社長から、仕事上のアドバイスが欲しい、航空券を送るので来てくれ、という要請を受けての
ことです。アドバイスは口実で、顔を見、酒を飲み、話をしたいというのが本音だったのでしょう。
そういえば震災後何度も心配の電話をもらいました。ソウル滞在中の三晩とも、ビール、焼酎、
マッコリをたくさん飲まされました。3泊目の夜は、その会社の社長と公認会計士、別の会社の
社長(いずれも韓国の方ですが)と、エイの刺身(世界の三大悪臭珍味のひとつ)をつまみにマッ
コリを飲んだのですが、そのとき一人が次のように言いました。「わたくしは日本の国民が分からない。
ヒロシマとナガサキで悲惨な体験をしているのに、何故原発を認めてきたのか」と。まじめな、しかし
痛烈な質問でした。茶化した返事をするわけにいかない情況と判断し、日ごろ思っているとおりに
正直に答えました。「日本国民は反省ができない。戦後責任もそうだったでしょう。さらにコンフォ
ーミズムというか、お上のいうことにすべてをあわせていくんです」と。さらに「核の平和利用のから
くりが見抜けなかった」と。わたくしはかなり、ナーバスに、しかも自虐的になっていました。
 この度の関電大飯のニュースは、予想されたこととはいえやはり大きなショックでした。と同時に
韓国での遣り取りの情況をやるせなく思い出させられました。
或る方が日本の原発を「国民の合意なき国策」と言ってますが、このような国策にどう抗していくべ
きなのか。あの韓国の友への答えに潜む自虐的、屈辱的感情をどうしたら払拭しきれるのか。これ
からも考え続けていくしかないのでしょう。
6月1日に仙台で、井上ひさしの高校(仙台)の同級生で著名な憲法学者の樋口陽一先生の講演会
がありました。仙台弁護士会の主催です。そこで先生は「騙されることの罪」ということを言われました。
世の中騙すしくみがたくさんある。だからよく目をみひらいてだまされないようにしようと。原発の安全
神話は将にそういうことです。なお会場で仙台在住のブナの会の方とお会いしました。
また、6月3日、栗原市で市民講座として、小出裕章さん(京都大学原子炉実験所 助教)の『知って
おきたいホントの放射能のこと』と題した講演会がありました。栗原文化会館大ホールが満員になる
ほどの盛況ぶりでした。当ブナの会では5人ほど聞きにいってます。市民の関心の高さが伝わってき
ました。小出さんはいろいろお話されましたが、わたくしに強く印象に残ったのは、「放射能で汚れた
世界で生きていくしかない」というある種の諦念というか現状認識、食品を汚染の度合いで仕分けを
し放射能感受性の鈍い大人は食うということで「自己責任を果たす」という責任論でした。
ブナの会の会員皆さんは、いろんなかたちで情報を集め、その上でわたくしの関心ごとである加害・
被害・責任といった切り口以外の別の切り口でもっと深く考えたり、或いは子供さんや子孫への影響
など切実で現実的な問題を抱えこまされ悩んでいる方もたくさんいらっしゃることとおもいます。そん
な思いや問題が背景にあったのでしょう。ブナの会で集めた『女川再稼動反対』署名は約600人分に
も達しました。この署名は、総数4万人分の署名の一部として6月15日に宮城県知事に提出されてます。
さて、署名が一区切りしたいま、ブナの会として、これからこの昂揚した意識をどう維持し、どのように
展開していくかが問題となってきていると思います。当ブナの会は、ブナそのものを、ブナという言葉に
象徴された自然と環境を、そしてそのなかに生きる人間を軸に考え行動するという集まりです。その趣旨
からいって、さらに一市民として、やはり黙っているわけにはいきませんし、更なる展開が必要となります。
しかし、当ブナの会は原発反対で旗揚げをしたわけではありませんし、単独で運動を構築するだけのノウ
ハウとパワーを持っていません。どこか脱原発に取り組んでいる市民団体と連携をとる必要があります。
ブナの会は、市民運動の横繋がりとして、女川原発反対に長年取り組んできた市民団体『みやぎ脱原発
・風の会(代表:篠原弘典氏)』と接点をもってきています。今年に入ってからも小関代表とともに、「『風の会
』会員・協力者の集い」(1月末)、秋の行動に向けての実行委員会準備会(6月10日)などに出席してきまし
たが、『風の会』は長い活動の歴史があるにもかかわらず、常に運動について原点に立ち返った真摯な
議論と模索を続けているのが印象的です。この『風の会』と連携し、行動していく、『風の会』の呼びかけ
に応え、実行委員会(或いは、連絡会、相談会であったりしますが)にできるだけ参加をし、活動の方向を
みきわめながら連携と連帯の道を模索していく、これが現時点でブナの会としてとりうる原発問題への取り
組み方ではないだろうかとおもっています。


【 寄 稿 】          緑 雨
                                  大和町  K K夫
『ブナの森は傘いらず水筒いらず』という言葉がある。森の中では雨が降っても葉っぱにさえぎられて
地表までは届かない、いたるところに沢水が流れていてどこでも水が飲める、そんな意味だ。しかしこ
の日の雨はちょっと変わっていた。なんと木の下でだけ降る雨だった。

■ はるかな道
夏至を少し過ぎた日曜日、梅雨の晴れ間を期待してブナの会の仲間とともに長倉尾根を歩いた。
コースは船形連峰の南端、泉ケ岳から船形山頂にいたる泉コースと呼ばれる古くからのルートだ。
北泉ケ岳と三峰山の間の6キロにも及ぶ穏やかな尾根道を長倉尾根といい、手つかずのブナの森が
残る稀有な場所として知られている。しかしながらどこの登山口から入ってもアプローチが長く、おい
それとは行けない場所でもある。
この日は日帰りで往復しようという強行軍だった。泉ケ岳から始まる船形連峰の主脈縦走路は地形
図を見るだけでも気が遠くなるようなはるかな道であった。    
山行の詳細を書くだけの紙幅がないので割愛するが、参加者全員が十二分にブナの森を堪能し
無事に出発地点に戻ることができた。それが最大の成果だった。

■雲の中を行く
午前中は時折青空ものぞいて気温も高くなく、爽やかな空気に包まれた絶好の山日和だった。午後に
なるとさすがにその天気はもたず、季節通りの湿った曇り空となった。上空は真っ白な雲で覆われてし
まったが、下界の方は縦走路のところどころから見えることがあった。
下界から山の方を見たら頂稜はすっぽりと雲に隠れているのだろう。我々は雲の中を歩いているのか
などと思いながらも、雨が降らないことを願った。

■不思議な雨
下山時も往路と同じ道を辿るのだが、起伏に富んだコースは下りといえども足取り軽くとはいかなかった。
下った後の登りはことのほか足に堪えた。
一帯がブナやミズナラの高木に覆われている長倉尾根を歩いているときのことだ。乳白色の上空はまだ
明るさを残していたが、森の中に射し込む光はか弱く足元は一層こころもとなくなってきた。日暮れが迫
っていた。
時折パラパラという音とともに雨粒が落ちてきた。いよいよ降ってきたか、まだまだ続く下山路を想像しな
がら頭の中では合羽を着る準備をはじめていた。ところが上空が開けた木のないところに行くと雨は降っ
ていないのだ。初めはにわか雨なのかとも思ったが、同じ現象は何度も繰り返される。どうもおかしい。
頭上いっぱいに広がる木の枝や葉っぱの様子を見て歩きながら、この雨のことを考えていた。
空から雨は降っていない。風があって細い枝や葉が揺れると大きな雨粒がバラバラと落ちる。風がない
ときでもまるで雨のように降ってくることがある。
そうこれは葉っぱに溜まった水滴が雨となって地上に落ちてくるものなのだ。
私が考えたこの「樹下雨」の仕組みはこうだ。
湿度が100%ちかくの空気がある。葉っぱの表面に微細な水滴が付着する。表面張力で丸くなった水滴は
前後左右とくっつくことにより次第に大きくなって、葉の表面を滑るように流れていく。上から落ちた水滴は
下の葉の水滴ものみ込んで更に大きくなって地上へと落下する。梢を揺るがす風がない時でも落ちるのだ。
これが木の下でだけ降る雨の正体ではないだろうか。

■緑滴る
疑問が解けてしまうと後は楽しいものだ、むしろ雨に当たることが楽しくさえ思えてくる。空気中の水蒸気が
頭上の木の中で雨となって落ちてくる過程を思い描くとまるで生きもののように感じられた。そしてその雨は
単なる水ではないような気がしてきた。
水をたっぷりと含んだブナの葉を思い浮かべてほしい。溢れんばかりになった葉の表面から上澄みの一滴
がしたたり落ちる。その小さな水玉は周りの万緑を溶かし込んだ緑色の雨粒なのだ。もしかするとその滴に
はブナの緑が、森の緑が凝縮されて溶け込んでいるのかもしれない。そう思うと一人嬉しくなった。
行けどもいけども延々と続く長倉尾根、緑の回廊には圧倒されるばかりだ。赤茶色の登山道以外はすべてが
緑色と言ってもいいほどだ。何時間もそこを歩いていると雨ばかりでなく、吹く風や吐く息さえもが緑色に見える
ような錯覚におちいってしまうことがある。時空を超えた緑の王国なのだ。
太古の昔より連綿と続くブナの森、その息吹を存分に味わった一日であった。
早朝から夜まで一日中歩き続けたせいか、翌朝目が覚めたときには体のあちこちに痛みを覚えた。それもその
はずで、山行時に胸のポケットに忍ばせておいた歩数計は優に51.000歩を超えていた。
それでも気分は爽快だった。
体中の細胞がすべて生まれ変わったような、しんぴんの朝だった。


【 寄 稿 】    見えないザイル
                                  青葉区  S木 T良
  6月半ば以降、何度となく一枚の写真を眺めている。
  約20年前、ブナの会の有志20名ほどで大朝日に登り、大井沢に下り「朝日山の家」に一泊した翌朝、
長く朝日連峰のブナを守り続けてこられた志田忠儀さんを囲み、一同で撮った記念写真である。
  中央の椅子に座る志田さんの左隣に、涌谷のK藤Y昭さんが志田さんと全く同じ姿勢で威儀を正し
ている。当時はまだ、トレードマークの口髭を延ばしておらず、いかにも若々しい。当時志田さん(1916~
は、70代半ば、K藤さんは40代半ば。親子といっても通るほど、姿勢だけでなく雰囲気も似ている。
  20代の頃から、志田さんに私淑しているK関代表が、志田さんがお元気なうち、いろいろお話しを伺
っておきたいと、5月26日「志田忠儀さんを囲む会」を企画された。この写真は、集いにあたり当時の写真を
複写して、当日の参加者に配られたものである。
  まさかこの日、K藤さんを含む5名の宮城労山隊が、アラスカのアンカレジからマッキンリー登山口に向か
っていたなどとは、誰も気づいていなかったはずだ。
  志田さんは、90代半ばとは信じられないほどお達者で、記憶も確か。1970年代に「ブナ等の原生林を守る会」
を立ち上げた前後の状況などをお話しされた。若いころの志田さんは、1950年に指定された国立公園の管理人
として、広大な朝日連峰を縦横に駆け巡り、日に40~50kmも歩くので、「風のおじさん」といわれたものだという。
野生動物にもなつかれたのか、野生のサルが志田さんの肩に乗った写真も見せてくださった。植物にも詳しく、
希少種を発見されたことも一度や二度でないらしい。
  営林署の過剰伐採に抗議の声を上げた志田さんに、首都圏の登山者グループも応援した。彼らは「朝日連
峰のブナを守る会東京支部」を立ち上げ、会報「ブナといぬわし」を発行した。私の手元に1976年発行の「ブナ
といぬわし」があり、寄稿者の中に槙有恒さんがおられたので、志田さんに槙さんとのご交流をお尋ねしたところ、
「もうきつい山は苦手になった」とおっしゃって、何度も訪ねてこられたとのことだった。
  おそらく1960年代以降、槙さんが60代半ば、志田さんが40代半ばの頃からのお付き合いなのだろう。
  慎有恒さん (1894~1989)は、仙台市生まれ。父上の転勤により、一時仙台を離れたが、小学4年から旧制
中学 (仙台二中)卒業まで、叔父上宅に預けられ、再び仙台で過ごした。「仙台市の西北隅の山に近い場末」
とあるから、八幡町近辺でもあろうか。仲間との遊び場は、北山とか伊勢堂山とか台ノ原の近郊の野山であった。
泉ケ岳にも登っている。
  慶応義塾に進学後は、日本アルプス方面の山登りに熱中し、学内に山岳会を立ち上げた。草鞋履き登山が
主流だった当時、伝説の山案内人上条嘉門次らの案内も受けている。
  1917年大学を卒業、翌年アメリカに渡り留学を志すが、戦時下の空気や都会になじめず、数力月で大学を
中退し、 アメリカやイギリスで田舎暮らしを体験し、19年の11月にスイスに移った。二夏、アルプスのガイドに
指導を受け、21年9月、彼らと共にアイガー東山稜の初登攀に成功する。帰国後、アルプスの登攀技術や最新
の登山用具などを伝え、日本における近代登山の先駆けの一人となった。さらに25年、日本初の海外遠征隊を
率いて、カナダのアルバータ山初登頂。56年には、第三次マナスル隊の隊長として、日本人初の8,000m峰登頂
を成功させるなど、海外登山の先駆者でもある。
 槙さんの自叙伝「わたしの山旅」 (岩波新書・1968年)を読むと、近代登山の先駆者とはいえ、どんな山へも畏敬
の念を忘れず、山人への敬意を常にもち続けた古き良き明治人という印象が伝わってくる。
   「この自然との親しみは、おのずからに愛情となり、敬虔の念慮となって破壊するものに反対する。」と書
く槙さんは、志田さんについても言及している。
   「わが国でこの種のものがあるのは大町の山岳博物館だけである。~~また山形県の西川町大井沢小学
校内に先生や生徒たちと篤学の志田忠儀君などによって朝日岳の資料を集めた小さな博物館がある。心ひか
れる設備である。」
  おそらく槙さんは、志田さんの中に、上条嘉門次ら日本の猟師、アルプスのガイド、ヒマラヤのシェルパなど
にも通底する山人の心を感じられたのだろう。
 志田忠儀さんは謙虚な方である。槙有恒さんも謙虚な方のようだ。慎さんは帰朝後、立山・松尾峠で友人の
凍死をみとってもいる。大自然を深く知り、命のはかなさを知るほど人は謙虚になるものなのだろう。
  K藤Y昭さんも謙虚で寡黙、シヤイな人である。6~7年前だったろうか。船形山頂への薪上げの時、同行の
新聞社のカメラマンが山頂小屋の脇でシャッター・チャンスを狙っていた。K藤さんは背負いこにどっさり薪を
積んでやってきた。カメラマンを認めると、「俺こういうの苦手なんだ」と、私に背負えという。「やらせだな」と
苦笑いしながら、私はK藤さんの重い荷を背負ってほんの数歩歩き、カメラのモデルとなった。
きっとK藤さんは志田さんや槇さんとのみえないザイルで繋がっているのだ。
  今年のアラスカは大荒れの日が続いているらしい。6月には稀だという台風が日本列島を襲ったのは、
偏西風の蛇行が影響したのだという。日本もアラスカも異常気象でつながっているのだろうか。大津波の漂流
物もアラスカ沿岸まで届いている。海もつながっている。
  たくさんの人が今、できるなら風に乗り、波に乗って、アラスカヘ渡りたいと願っているのではないだろうか。
  K藤さんと同行の方々の消息が、もう少し明らかになることを祈る。
                                                         (2012・7・2)
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