「船形山のブナを守る会」世話人・「船形連峰 升沢避難小屋」管理人
B.Chibaさんってどんな人?

 

「船形山からブナの便り」の作者(千葉 B)はこんな人です。

山で見かけた時やアマチュア無線で<JO7JBB>のコールサインが聞こえたら、気軽に声を掛けてくださいね。

昭和35年5月*日 仙台市内の大学病院で産声を上げる。

大和町の自宅に妻と子、ネコ2匹で仲良く暮らしています。

生家は広瀬川のすぐ近くで、幼い頃は学校が終わると河原の広場で野球などをして毎日のように遊んでいました。その頃は約束するでもなく、大体同じような時間帯には近所の友達が河原に集まってきて人数によって自然と何かしらの遊びがはじまったものです。野球以外で面白かったのは、探検と基地作りだったですね。川の中州に渡って「秘密基地」を作ったり、自転車で青葉山まで行って今の青葉山野鳥の森周辺だと思うのですが、探検をして崖を登ってみたりと危ないことばっかりやっていたような気がします。
冬の休日に父親や2人の兄と一緒に行った青葉山の山歩きでウサギの足跡をたくさん見た記憶が今も原風景として今でも強く残っています。

大学卒業までを仙台市青葉区の生家で過ごし、卒業と同時に就職先の関係で盛岡に赴任し4年間を過ごしました。盛岡では材木町の寮に住んでいたこともあり、宮沢賢治ゆかりの光原社や材木町の夕市なんかがとても情緒ある町並みとして思い出されます。

長男の誕生と同時期に宮城県へ戻ってきて、現在の大和町に居を構えたというわけです。よく船形山に行くために大和町に移り住んだと思われていますが、大和町に住んだときはまだ山に通ってはいなかったんです。その頃、仕事を通して知り合った方から渓流釣りを教えて頂き始まった山通いですが、最初の頃はあっちこっちの沢に向かい特に船形山にこだわることはありませんでした。何年か経ってくると、ただ釣りをして歩くということよりも周辺の森林伐採や砂防ダムに代表されるような自然破壊がやけに目につくようになって、自分の子供たちが今の自分の年齢になる頃に同じように岩魚を釣って遊ぶことが出来るような環境を残してあげること、そのために自分が出来ることを考えるようになってきたのです。


それが「船形山のブナを守る会」とかかわり合いを持つきっかけでした。
会の存在は前から知っていたのですが、自然保護団体って言うとなんか難しくてとっつきにくいイメージがあって最初は参加に躊躇していたのです。初めて参加したのは、大滝野営場で開催された「ブナの森コンサート」でした。これは参加ではなくて見に行ったというものでしたが、たまたま知っている人もメンバーにいたこともあり、名簿に名前を記入し会員として案内を受けるようになった次第です。観察会と称する山行にも参加するようになり、イメージで持っていた「こむずかしい」「排他的」「堅苦しい」と言うものは、すべて一蹴されました。これでいいのか?と思うくらい「分かりやすい」「お気楽」「開放的」な人のいい山好きな人たちの集まりでした。それから、かれこれ10余年。どっぷり首まで浸かっているのは、サイトをご覧になってお分かりいただけることでしょう。

登山・渓流釣り以外には、平成5年頃から、今の景色をいつまでも残しておきたいとの想いから「風景写真」に目覚め、古川市在住のフォトグラファー大内親志氏の教えを乞いました。一番夢中になっていた時期には、ミノルタ・キャノン・マミヤ・ペンタックスなどの機材を抱え平日も出勤前に撮影に行くなどしていたものです。

 

 

 

アマチュア無線は中学校の時に免許は取得していましたが、無線機が買えずにずっとやっていなかったのですが、東北山岳ガイド協会の冬山講習会に参加した折、緊急時の連絡手段としてのアマチュア無線の必要性を感じ、ハンディートランシーバーを購入し「JO7JBB」のコールサインで個人局を開局しました。中学の時に免許を取るほど、元来好きだったこともあり、開局後半年で3級免許を取得し自宅にも貧弱ながらもアンテナを設置し時たま海外交信も行うプチDXもやるようになってしまいました。でも、一番は船形山の山頂での無線運用ですよ。自宅に100万円かけてアンテナタワー建ててもせいぜい高さ20m〜30mですが、船形山なら1500mの高さにアンテナがあるのですから、電波の飛びは全然違います。

意外ですが・・・
ウィークデイは***グループのコンサルティングセールスマンとして、仙台市青葉区のオフィス街を走り回っています。

よく自由業かと間違われるのですが、ご覧の通り平日はしっかりビジネスマンしてるんです。

 

 

 

 

 

つり人社刊 渓流2004春号

アマチュア無線 コンテスト東北1位


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