晩秋の山頂と船形山神社の便り

11月3日 雪が降る前に・・・と思い船形山に行ってきました。里ではまだ木々の紅葉は始まったばかりの感じですが、山はもう晩秋です。何年か前にはちょうどこの日に雪山登山をしたこともあったんですよ。
早起きして升沢コースを歩こうと思っていたのですが、なんか朝ダラダラしてしまって家を出たのが8時を回ってしまい結局大滝キャンプ場から色麻コース→山頂→升沢小屋→三光の宮→大滝キャンプ場のコースとなってしまいました。登山口は好天にも恵まれ大勢の登山者の車で大賑わいでした。左の写真は湯谷地から山頂を眺めたものです。今年はブナをはじめドングリ類が豊作の年でしたが、ナナカマドの実も結構豊富についていました。

 

登り始めてすぐ大量の薪を担いでいる方に出会いました。私たちが10月初めに約200キロの薪を荷揚げしたのは新聞で知っていたらしいのですが、2月に冬山山行を計画しているとの事で自分達の使う分を今のうちに荷揚げしておくのだそうです。
さすがですね〜!秋の日帰り山行でも自分達の服装など装備をたなにあげて寒いからと備蓄薪をバンバン燃やす人たちもいると思えば、計画をしっかり立てて自分で準備する人たちもいるんですよね。まあ、本当はこうあるのが当たり前なのですが、私たちが薪を担ぐのは薪ストーブは設置されてしまっているので、(ストーブの是非についてもさまざまな意見はあります)ストーブはあるが燃料がないと、他の山小屋の話ですが小屋周辺の潅木・喬木や小屋の壁をはがして燃やしてしまう人もいたそうで、そうなって欲しくないからとの思いからです。


山頂は青空の下、外で昼食をとる人も多く今年最後の山頂での屋外休憩を出来る日だったのではないでしょうか?
私は小屋の2階で食べてましたがご一緒になった方からサシミや焼肉を頂き自分で持参したラーメンにあわせかなり充実した昼食となりました。いろいろと話した後、そろそろ下山しようかと1階に下りたところ上の薪上げをしていた方たちと話し込んでしまい、ここでもまたおいしいトン汁をご馳走になっちゃいました。私は基本的にすすめて頂いた食べ物は遠慮しないというスタイルを取っていますので、このページをご覧になっている皆さんも私と会ったら荷物の軽量化のお役に立てるかも知れませんよ。(でも決してひもじい訳ではありませんので・・・)

 

標高1000m付近のブナ

標高600m付近のブナの紅葉

もみじも綺麗でした

下山後は船形山神社にお参りしてきました。今月13日には「船形山のブナを守る会」の行事として訪れることになっていますが、当日私は参加できないのと参加予定者の予備知識としてお役に立てるかな?と思っての事です。
船形山神社は内水面水産試験場の後方に位置し、小荒沢林道の入り口から左手に入る小道が参道になっています。入り口の鳥居から高度差約120m急峻な鎖場やハシゴ場を越えやせ尾根を辿った先にあります。標高650m、三方が急斜面に囲まれた尾根の先端の広場に薬師堂と社が建てられています。
祭神は「保食神」(うけもちのかみ)食物をつかさどる農業神です。
明治以前までは「船形権現」と呼ばれており、平安時代より山岳信仰の対象にされ出羽三山にならって船形山・蛇ケ岳・三峰山(それぞれ現在の山名)を三所権現として回峰し参詣されたらしいです。明治維新後に権現社名が禁止されると「船形神社」と改められましたが、明治22年に今の色麻町小栗山にある同名の「船形神社」と区別するために「船形山(ふながたさん)神社」となり現在に至っているのです。

急な鎖場を登ってゆくと右手に「お駒石」(写真上部)が見えてきます。
これは、その昔、お駒という女性が女人禁制の掟を破って山上へ
登ろうとして石になってしまったという伝説が残っています。

この神社では毎年5月1日に「梵天」(ぼんてん)と呼ばれる祭礼が行われます。その日だけ山の秘密の場所から、別当が掘り出した小金銅仏を社殿に安置し、その湿り具合でその年の豊凶を占って、村人が芸能などの祈りを捧げたあと再び別当が秘密の場所へと埋めに行くというものです。
この小金銅仏(菩薩立像)は6世紀ころ朝鮮半島からの渡来仏として日本海を経由して渡って来たという説もあるそうです。もしそうであれば、仏教受容の時代の日本でなぜそれが当時は相当な奥山であったであろう船形山麓の升沢に祀られるようになったのか?・・・今でこそ車で行けて気軽に山歩きが楽しめるようになった船形山ですが突き詰めてゆくとなかなか奥が深いですね。
船形山神社にまつわる伝説を書いたページが他にもあります。(こちら)

参考文献:深野 稔生氏「天翔ける船紀行」及び「改訂 船形連峰御所山案内」


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